柱銘文に依れば奉献は延宝三年(一六七五)とある。
願主は武雄頼長と弟の武雄頼久である。
笠木と貫、柱ともに三本継構成。扁額は無く額束で笠木を支える。額束は磨滅風化具合が他の部材と異なり、明治御一新の神仏分離時、扁額に大明神や大権現等の仏的揮毫が有ったので額束へ取り換えたのはではないか、と宮司さまが仰っておられた。柱スボリ上部に形骸化した台輪意匠、また転びはなく直立で基礎には亀腹を持つ。厳密には肥前型鳥居ではなく意匠は明神鳥居のそれである。武雄市に肥前鳥居として文化財登録されおり案内も設置されている為、ここでは肥前鳥居として紹介する。
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また、柱には以下の記銘がある。
「黒髪山下宮者元是熊野神也 神之為徳也見日本書記傾日 武雄掃部藤原頼長同弟権亮 藤原頼久削石華表以建宝前 蓋荘権現之社壇祈子葉之繁 茂也予当仁不獲譲謾染毫其 銘日」「神徳惟馨華表豈没 相攸彫聲永懸日月 延宝三年乙卯八月吉日良辰 権僧正覚遍謹題」
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黒髪神社下宮御由緒
黒髪神社は、崇神天皇十六年に朝廷の勅願社として黒髪山を卜して鎮座されたと伝えられる、肥前最古の由緒を持つお社です。
頂上の天童岩には、原初の信仰形態である磐座信仰の姿が伝えられ、また太陽穀霊崇拝に因む天童信仰がみられるところからも、歴史的古さが窺われます。
平安末期史料「武雄神社文書」には、当社は「朝廷ノ御祈祷所」で「杵島郡第一ノ霊社」とみえます。鎌倉期以降、天台修験と結びついた熊野信仰が伝播してくると神仏習合の様相が強まり、やがて「黒髪大権現」の称号で呼ばれるようになります。末社・掛社は杵島郡・松浦郡中心に五十社に及んでいました。
戦国期には、諸武将が誓願の起請文として用ひた「牛王宝印」守札を発行してをり、上宮・中宮・下宮の三所からなる規模とともに、社格の高さをあらはしています。江戸期の祭礼日は「士民群集シテ市ヲナス」賑ひであつたと古記にあります。
秋のお供日に奉納される流鏑馬は、永万元年、大蛇退治の願成就として当社下宮に於て奉納したのが始まりで、現在まで八百四十余年続く伝統神事となつています。





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